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イスラムから見た助け合いの重要性 [社会]

西側諸国の社会の特徴の1つは個人主義であり、西洋諸国は世界の他の地域にもこの傾向を広めようとしています。多くのヨーロッパ人は、他人のことを考えるよりも、自らの個人的な利益を求めており、人生の物質的な側面を最大限に活用しようとしています。個人主義的な考え方が広まったことで、協力や助け合いといった概念は、次第に人々の意識から失われつつあります。

しかし一方で、人間は本質的に社会性を有し、仲間や同胞からの助けを必要とする存在でもあります。このことは、人間の理性がよしとするものです。他人を助けることは、多くの思想や宗教、そして人類社会の全体で認められています。おそらくはこのために、イスラム教は人間の本質に即した最も完成度の高い啓示宗教として、人間の抱える問題や悩み事の解決を、人間性に溢れ価値ある行為の1つと見なしており、現世と来世においてそれに対する多大な報酬を定めています。イスラムでは、全ての人に対し、自分の出来る範囲で他人を助けるという責務が定められており、他人のニーズを満たし問題を解消することは、人道的、道徳的な原則の1つとして称賛され、奨励されています。たとえば、イスラムでは5分の1税や任意の寄付といった、金銭面での問題に加え、人々に対し最低必要なニーズが完全に、或いはある程度満たされたら、無駄遣いや浪費を止め、自分の持っている物質的な便宜の一部を、弱者に対する支援として自発的に差し出すよう求めています。
シーア派6代目イマーム・サーデグは、次のように述べています。
「他人に対する善い行いは、次の3つの特質、即ち早急に、謙虚に、そして人目に触れないように行われなければ、完全なものとはならない。つまり、あなたがそれを早急に行ったなら、人々に早く喜びや心地よさがもたらされる。また、自分のよい行いを小さなこととして捉えれば、実際には神の前でそれを大きくしたことになる。また、人目に触れないように行ったならば、自らのよい行いを完成させたことになる。自分の同胞から助けを求められたならば、、相手があなたの助けを必要としなくなる前に、早急にそのニーズを満たしてやるがよい」
イスラムでは、信者たちに対し自分の仲間を出来る限り早く助けるよう奨励するとともに、その人の面目を維持するために、その人から求められる前にその人のニーズを見たしてやり、不足を解消するよう強調しています。これについて、イマーム・サーデグは次のように述べています。
「神が他人への善い行いや親切に対する報酬を与えるのは、他人から求められる前にそれが行われ、相手のニーズが満たされた時である。だが、他人から求められてから行ったならば、その人は恥ずかしさのあまり冷や汗を流し、赤面するかもしれない。もし、あなたが相手のニーズを満たしているのか否かを、相手が分からなかった場合は、自分の持っているものの全てを相手に与えても十分ではないのである」
この言葉は、他人を助けるために人々の面目を危険に陥れることは、決して許されず、人々の人格が尊重されなければならないことを物語っています。それは、一人ひとりの威信や立場が、非常に価値のある大切なものであることによります。

私たちは誰もが、どのような状況にあっても、自分の能力に応じて他人に貢献することが可能です。ここでいう貢献とは、善意に基づく行動、利益を得られるよう取り計らうこと、他人に対する金銭的、精神的、文化的な支援などの全てが含まれます。私たちは、一刻も早く他人を支援する必要がありますが、それは後になってからでは遅く、他人を助けたことによる恩恵が得られない可能性があるからなのです。
ここで、シーア派2代目イマーム・ハサンにまつわる、次のような伝承をご紹介することにいたしましょう。
ある時、ある人にある問題が発生しました。その人が、イマーム・ハサンのもとに赴くと、ちょうどイマーム・ホサインは、モスクで礼拝の最中だったのです。イマーム・ハサンは、やって来たその人に次のように語りました。
「あなたはなぜ、私の兄弟であるイマーム・ホサインの存在に気づかず、彼のところに行かなかったのですか?」
その人は、次のように述べました。
「私は最初は、イマーム・ホサインのところに行って、助けを求めるつもりでした。でも、イマーム・ホサイン様はご隠居中で、モスクの外には出られないと言われました。だから、私は彼のところには行かなかったのです」
そこで、イマーム・ハサンは次のように述べました。
「もし、彼があなたのことを知り、あなたのニーズを満たすことができると知ったならば、それは彼にとって1ヶ月のお籠りよりもよいものになっていたはずだ」
実際に、他人のニーズを満たし、不足を解消することは、他人を助けること以前に、助けた側の人にとっての恩恵となります。私たちは、生活の色々な場面において、神が私たちに注目しているがゆえの恩恵であるかもしれないのに、その恩恵を特に意識することなくやり過ごしてしまう、ということがあります。これについて、イマーム・ハサンは次のように語っています。
「人々が、あなたの助けを必要としてあなたのところにやって来ることは、神の恩恵の1つである。だから、神の恩恵に対し顔を背けてはならない。さもなければ、その恩恵は他の人に渡されてしまうことになる」

昔々、ある国の王様が道の真ん中に石の板を置くよう命じました。それから、王様は自分の側近たちと共に片隅に隠れ、誰かがその石の板をどけるかどうかを見守ることにしたのです。宮廷に使えるお金持ちの人々や商人たちの多くは、その石の板に注目することなく、その脇を通り過ぎていきました。また、一般庶民の多くも、道の真ん中に王様の石の板が置かれていることに文句をいい、道を整備せず、国民の生活状況に対するケアが行き届いていないとして、王様を非難しました。しかし、誰一人として、その石の板をどけようとはしなかったのです。
しばらくの間、沢山の人々がそこを往来した後に、野菜を抱えたある1人の村人がそこを通りかかりました。この村人は、道の真ん中に石の板が置かれてあるのを見ると、すぐに担いでいた荷物を下ろし、石の板をどける作業にとりかかりました。この男は、しばしの間苦労した後に、その重い石の板をどうにか、道の脇にどけることに成功したのです。それから彼は、ちょうど石の板が置かれていた場所に、金銭の入った袋を見つけました。袋を開けてみると、その中には、沢山の金貨とメモ書きが入っています。そのメモ書きには、次のように書かれていました。
「これらの金貨は、道の真ん中から石の板をどけた人のものである」
王様は、この方法によって人々に対し、私たちの行く手に生じたあらゆる障害物が、進歩と成功のチャンスになる可能性があることを教えたのです。

一方で、他人に対する貢献は、人々の心を魅了する最高の方法でもあります。過去の偉人たちは、これについて次のように述べています。「自分が望む全ての人々に対し、親切にしてやり、その人の心をつかむがよい」 また、シーア派6代目マーム・サーデグも、他人の悩み事を解決することは、自らの幸せと救済につながるとして、次のように述べています。
「神は、助けを必要とする人々やシーア派教徒に救いの手を差し伸べ、彼らの問題を解消し、ニーズを満たす為に、ある僕たちの集団を選び出した。彼らの貢献に対しては、その後利益として天国が与えられる。あなた方も、そうした僕たちの一部になれるなら、彼らの仲間入りをするがよい」
善い行いをする人は、助けを必要とする人々よりも、善い行いをすることを必要としています。なぜなら、善い行いをする性質の人々は、他人を助けることで、来世での報酬を約束され、また自らの行動の記録に名誉と、よい意味での名声が刻まれることになるからなのです。<引用 iran Japanese Radio


<落書き>

冒頭に「西側諸国の社会の特徴の1つは個人主義であり、西洋諸国は世界の他の地域にもこの傾向を広めようとしています。多くのヨーロッパ人は、他人のことを考えるよりも、自らの個人的な利益を求めており、人生の物質的な側面を最大限に活用しようとしています。個人主義的な考え方が広まったことで、協力や助け合いといった概念は、次第に人々の意識から失われつつあります。」とある。

これはイランだけでなく日本でも同じように当てはまる。しかし、個人主義といったとき、その反対は何か。全体主義だろうか?個人主義とそれ以外の主義が人間の中に存在していて、出たり入ったりするご都合主義こそ人間の生き様の実態ではないのか。個人主義を徹底的に追及する者は権力や財を手に入れる。権力や財を持たぬ者は助け合わねばならない。共産主義は本来そういったものの互助だったはずだが、中国見るごとく権力を得たものは財を築き個人主義に陥っているように見える。これが世の中の実態ではないのか。聖人賢者といえども権力を得、財を手に入れればくだらない人間になるに違いない。


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